水曜日の当直の後からなんか熱っぽい状態が続いていたのですが高熱には至らず結局昨日の午後から家にこもることで何とか症状は寛解しました。
妙な緊急手術などで急に交感神経が緊張したりすると体調に悪影響が出るようです。
録画してあったNHKのドキュメント「日本人は何を考えてきたのか」をまとめて見ました。
田中正造と南方熊楠の二人は「坂の上の雲」の対極にいるような人達だという中沢新一さんのコメントに同意。
この番組を見ていて思い出して「社会は絶えず夢を見ている」を再読しました。
この本のテーマというかキーワードの一つは「第三者の審級」です。
特に第三講ーこの本は大澤氏の講義録というような体裁を採っていますー「リスク社会の(二種類の)恐怖」はぼくにとっては重要な論考が展開されている章です。
これは患者と医療提供者との関係にも拡張して考える事ができると思ってそこら辺を考察してみようとおもっていたのですがネットを調べるとすでに大澤氏本人による考察が存在しました。あまりにも見事な論考なので紹介します。
医療についての論考の部分の冒頭を引用してしてみます。
リスク社会においては、第三者の審級が、二重の意味で――つまり本質と現実存在の両方に関して――撤退している。しかし、人はこの事実を否認しようとしている。現代社会には、「第三者の審級の二重の撤退」を示す徴候が、至るところに――とりわけ科学にかかわる領域に――見出される。
そうした徴候の一つとして、医療の分野における「インフォームド・コンセント」の流行を挙げることができるだろう。インフォームド・コンセントとは、医者が患者に手術などの医療措置について、その効能や危険性についてよく説明した上で、患者から同意を得ることである。インフォームド・コンセントは、どのような治療を採用するかを、最終的には患者自身に選ばせることだと解釈することができる。これ自体は、たいへん結構なやり方だ。
しかし、どうして、ことあらためて、こうしたことが推進されなくてはならなくなったのかを考えてみれば、われわれは、ただちに、これが第三者の審級の不在に対する対抗手段であることに気が付く。
現代医療を支配しているのは統計・確率の考え方だと思っています。evidence-based medicineの本質は統計・確率でしょう。臨床の医療行為はある意味では「シュレーディンガーの猫」が入っている箱を実際に開けるようなものです。このような現代医学は,患者とまたそれを提供している医師にとって「ほんとうの第三者の審級」として絶対的に君臨することはありません。どんな名医であっても原理的には「ほんとうの第三者の審級」の視点を提供できないのです。
「人は永遠に生きることはできない」という事実はすべての人間が共有している考えだとぼくは思いますが,患者はもちろん医者の中にも「人は永遠に生きることができる」という妄想というか言葉が悪ければ根拠のない希望を抱くものがあることが現代医療の抱えている根本問題の一つだとぼくは考えています。しかし同時にそのような希望を持つことは間違ってはいません。だからこそ現代医療の抱える問題が単純な処方では解くことのできないアポリアなのでしょう。
また医療はリアルな臨床の行為で有りその問題点をある視点から考えたと言っても実際に存在する問題が解ける訳ではありません。このような事情を無視した「安全管理室」的な発想が医療現場を蹂躙しつつあることに憤りを感じますー今日はこれが言いたいだけだったのですー。
ヘーゲルはナポレオンがイェーナに入場する姿をみて「世界精神が馬に乗って通る」と言ったそうですが,確かにこのような時代にはある種の「独裁者」が人心をつかむ局面があると思います。よいか悪いかはぼくは知りません。
2-hydroxyglutarate detection by magnetic resonance spectroscopy in IDH-mutated patients with gliomas
Nature Medicine (2012) doi:10.1038/nm.2682
これすごいですよ。
医学部の学生の授業でしゃべりました。90分しゃべり続けるので疲れます。学会やセミナーでは長くても60分ですから30分も多いわけです。
出席者は余り多くありませんでしたが一番前に座っていた学生は結構よく勉強していたと思います。「血液ガス分配係数」も知っていました。ぼくがMacBook Airの設定でもたついていたら助けてくれました。試験ではがんばってください。難問奇問で皆さんに挑戦します。
少し前にGroopmanの”Your Medical Mind: How to Decide What Is Right for You”の邦訳「医者は現場でどう考えるか
」について書きました。(参照)
医者の思考の流れを症例を巧みに使って記述して陥りやすい判断の誤りなどを指摘したいくつかの章で構成されたものです。
患者と言うより一般的な読者を想定したものですが医者が読んでも読み応えはあるし医学生,研修中の医師が読めば症例のおもしろさも加わってとても有意義な読書体験となると思います。
英語版を以前に読んだのですが-日本からはKindle版を購入することはできませんー邦訳も各所で絶讃されていて書店で見かけたので邦訳を買って読んで見ました。
邦訳はだいぶこなれていて読みやすいと思いましたーところどころ一読意味が通らないと思う箇所がありますが大局には何の影響もありませんー。
Groopman氏はこれ以外にも多数の著書があります。
例えば”Second Opinions“なども「医者は現場でどう考えるか
」とほとんど同じ内容をこちらも症例にそってエッセー風に進めていく著作です。こちらにも邦訳が存在します。(セカンド・オピニオン―患者よ、一人の医者で安心するな!)
その他”The Measure of Our Days: New Beginnings at Life’s End”なども合わせて読みたい本です。
本の紹介にもありますがGroopman氏は”an eloquent new voice in the literature of medicine”と言ってもよい人物だと思います。
池信先生が熱烈に推薦している「Thinking, Fast and Slow」を読み始めました。Kindle版を買いました。英語も平易で進んでいますが読了までには時間が掛かると思います。
数日前に調べ物をしていたら偶然「NHKスペシャル 沢木耕太郎 スポーツ・ドキュメント奪還~ジョージ・フォアマン 45歳の挑戦~」が番組ごとYoutubeに出ているのを発見しました。
ジョージ・フォアマンのタイトル戦までのドキュメント「奪還」
沢木耕太郎氏が文藝春秋で公表した同名のドキュメンタリーと同時進行で制作されたものです。
文藝春秋のドキュメントではタイトル戦の結果はまだ出ていないところで終わっていました。 (Number PLUS 2011 May―Sports Graphic 拳の記憶に収録されています。)幸運にもこのタイトル戦をテレビ(WOWWOW)で観戦できたことを覚えています。
「NHKスペシャル 沢木耕太郎 スポーツ・ドキュメント奪還~ジョージ・フォアマン 45歳の挑戦~」はNHKのスポーツドキュメントというよりすべてのドキュメントの頂点の一つを極めていると言ってもよいようなすばらしい番組です。
このドキュメントは過去に二回は観たのですがもう一回観たいものだと思っていたらYouTubeで視聴できて満足しました。何度観てもすばらしいです。
以前観たときはそのような感想は持ちませんでしたがフォアマンはすごく丁寧にキレイな英語で話します。彼が伝道師としてのキャリアの中で身につけたのだと思います。フォアマンは日本のテレビ局の取材なのに本当に真摯に語ります,改めて見直してびっくりしました。例えば「闘う目的があれば人はどんな苦しみにも耐えられるものだ」とか本当に真顔で語るわけです。
全編,沢木耕太郎のフォアマンへのインタビューと小林薫氏による沢木耕太郎のドキュメントの朗読で構成されています。その意味でこの番組も彼の「私ノンフィクション」の一つです。
例えばフォアマンがアリにknock outされたキンシャサでのタイトル戦は「壮大な精神の虚構が絶対の肉体を打ち負かしたまさに奇跡としか言いようの無い一瞬」などと表現されます。またフォアマンのこの45歳の挑戦は「粉々になった自我を拾い集める」ための挑戦だという風に語られます。
しかしこのドキュメントはこのような大げさな表現が妙にしっくりといく沢木流の番組に仕上げっているのです。
またこれまた沢木耕太郎が神がかっているとしか思えないのですがアリが番組主催中にテキサスに現れてインタビューに応じてくれたシーンまで入っているのです。
実はこのNHKの番組はフォアマンの「奪還」プロジェクトの唯一のドキュメントです。アメリカ人は全く興味を持っていなかったのです。ここら辺の興味の持ち方,何をテーマに選ぶかのセンスなどには学ぶべきものが多いと思います。
YouTubeでは「ジョージ フォアマン 奪還」で出ています。誰かが今年の9/21にupしてくれたようです。もしかしたら削除されるかもしれません。これを観ないとすれば確実に損をします。
フォアマンの自伝も出ています。これも読んだ方が良いです。(「敗れざる者―ジョージ・フォアマン自伝」)