当直も完徹が二回続くとどんどん疑心暗鬼になってきて今日も寝られないのではないかというストレスにさいなまれます。
ホントに完徹すると脳内の分泌物が出っぱなしになって最低一日は妙な気分が続きますね,精神的に。
駅で村上龍さんの「無趣味のすすめ
」が文庫本になっているのを見つけたので買って電車の中で読んだ。確か,以前は図書館で借りた本で済ませたようような。
帯には「こんな時代を生きるための指針を示す,ラジカルな箴言集」とある。
まあここまでの内容とは思わないのですが,村上節が炸裂しているよい本だと思います。
電車で読むのにもぴったりの分量です。
「最高傑作と「作品群」」というエッセイがあります。
芸術作品や文学などで誰それの最高傑作と云うときには「作品群」というような一連の作品が前提として存在していないといけない。例えば科学者で論文が一つしかないのにそれが私の最高傑作ですと云ったとしてもそう判断でき無いよというような話から説き起こされていくエッセイです。
科学者でも体系的で重層的な論文群があるような人はとりあえずsomebodyとしてとらえられるだろうしそういう作品群がない間はその人はnobodyと扱われてしまうのだろう。
科学論文においてどのようなものが傑作と云われる論文と見なされるのかには決まった規則がない。まず10誌くらいのトップジャーナルに掲載されるような論文にはある種の傑作性があるのだとは思う。数年経てば引用回数の統計も出て来るのでその時期まで行けば衆目により傑作というのは定まっていくのかもしれない。
ともかくも一貫したテーマによる「作品群」の構築が重要なのだろう。
またそのような作品群の構築は趣味とは云わないだろう。
などということを北へ向かう列車で考えました。
ぼくも研究を始める前には研究というのは楽しいものだろうと思っていたし小さな実験に成功したりするとそれなりに満足感も得られていたのだが,院を終わってからは何というか楽しいとかそういったことを思った事は無いのです。自分の予想通りの結果が得られたり論文が出版されたりするとある種の快感は感じるのですがだからといって別に楽しいとも思わないし,最近では院生の論文が出るとまず思うことは「よかった」ということでこれは楽しいという感覚とは全く別物なのです。
なのでぼくにとっては研究は趣味ではないのだと思います。だからといって現在研究が仕事というほど大きな存在かどうかもよくわかりません。
研究もホントやってみないとわかりませんよ。>新院生
頭のいい人はちょっとやって合わないとか云いますけど普通の人は愚直に何年かしないとわかりませんよ。ぼくなんて4年で学位を取れなかった劣等生だからわからないということがわかるわけです。
以前にこんなエントリーを書いたことがありました。
「小僧さん」から「番頭さん」になることができたらすばらしいと思います。
「箱や極めのないニセ物なぞないのである」というのは名言ですね。
しかし週末にかけてやってしまねばならん仕事は多い。さっき重要なもの三つ思い出しました。これが終わらないと…
某学会も準備は途中までしか進めてないので最終段階まで進めないといけないです。今回は3回登壇する事になるな。その他某審査員。
涼しくなってきました。
研究室ではエアコンが作動している時間が圧倒的に長いのですが、あのブーンという音が耳障りで集中できない場合があります。そのためにBoseのnoise reduction systemを内蔵しているheadphoneを持っているのですが、耳を完全に覆うすこし古い機種なので長時間の装着で耳が痛くなってしまい、一時間が限度です。
初夏と初秋の極短い期間だけエアコンのスイッチを切っても快適に過ごせる期間があります。ぼくのiMacは大変静かなのでエアコンを切って部屋を暗くして作業をしているととってもはかどると思う時があります。
芥川龍之介の小説に「戯作三昧」というのがあります。青空文庫にも収録されています。八犬伝の作者滝沢馬琴が主人公です。
終り頃の一章に以下のような節があります。長いですが引用してみましょう。
その夜の事である。
馬琴は薄暗い円行燈の光の下で、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいつて来ない。ひつそりした部屋の中では、燈心の油を吸ふ音が、蟋蟀の声と共に、空しく夜長の寂しさを語つてゐる。
始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のやうなものが動いてゐた。が、十行二十行と、筆が進むのに従つて、その光のやうなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知つてゐた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行つた。神来の興は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまふ。……
「あせるな。さうして出来る丈、深く考へろ。」
馬琴はややもすれば走りさうな筆を警めながら、何度もかう自分に囁いた。が、頭の中にはもうさつきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。
彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆は自ら勢を生じて、一気に紙の上を辷りはじめる。彼は神人と相搏つやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。
頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、滾々として何処からか溢れて来る。彼はその凄じい勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、緊く筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。「根かぎり書きつづけろ。今己が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」しかし光の靄に似た流は、少しもその速力を緩めない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲つて来る。彼は遂に全くその虜になつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆を駆つた。
この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……
瞬間的にこのような境地に達することができることがあります。
京都大学ではホームカミングデイというものが設定されています。今年で5回目です。
同窓会のようなものなのですがなかなか多彩な出し物があります。
例えば、小惑星探査機はやぶさ」プロジェクトマネージャー 川口 淳一郎 先生の講演などが今年はあります。川口先生は京大の同窓生なのだそうです。
しかし笑ってしまうのは、懇親会です。
学生サークルTREVISによるチアリーディングがあるのだそうです。
なんかちょっと…ですよね。
明日からちょっと本腰をいれて取り組んで来週中には懸案を90%以上まで進めたいと思います。昨日の朝から病院滞在が40時間を超えました。revise一つ片付いたので、今日はもう帰って寝ます。
一昨日のエントリーは小林秀雄のパクリです。すみません。
学会でしばらく更新が途絶えていました。今日の日当直でまた日常生活へ回帰することになりました。
知の旅への誘い
知の旅へー食べもの、味分けるということ
の続きです。
味分けるとか見分けるといえばニセ物とホン物の区別と言う事になります。
またまた小林秀雄の登場ですが、科学者たるもの小林秀雄の”真贋”と”骨董”は読んでおく必要があると思います。
「狐がついて」骨董の世界に足を踏み入れた小林秀雄の告白というかそんな小文ですがこれがおもしろい。
こんなことは研究にどっぷり使っている人にはよくわかっているのだが妙に理想的な印象をいだいているだけの人には分からないことの一つに例えば論文にニセ物とかホン物とかの区別はなかなかつけられないということがある。
捏造だといわれてもなお最後まで真相など分からない。裁判になれば明確な証拠がなければ捏造もなかったことになる。
偉い人がいうのでホン物だとか、ぼくみたいなチンピラがいうのでニセ物くさいというようなこともある。
しかし、実験を実際に自分の手でおこなったヒトにとっては実験事実は事実であり自分の発見は、価値があろうがなかろうがホン物なのだという信念はあるのである。
しかし、この世界、ホン物であろうがイケてないものはあるのでありイケてないものばかり世の中に送り出しているだけではどうしようもないということになる。
ここら辺の事情がわかるようになれば「小僧さん」から「番頭さん」に昇格できっかけがあれば「暖簾分け」してもらいえるということになる。
自分の店を構えればどんなに店が小さくとも、作品つまり論文に兎や角直接言ってくれるヒトはめっきり減って後は陰口を叩かれるだけになりその果てに朽ちて行くヒトも出てくる。
まあこんなことが骨董品の世界に仮託して書いてあるわけです。
「骨董」「真贋」はモオツァルト・無常という事 (新潮文庫)に入っています。たったの500円。
よくプレゼンテーションが大切とか言いますけどぼくはあんまり信じていません。
「箱や極めのないニセ物なぞないのである」と小林秀雄も言っています。
知の旅への誘いではブリア=サヴァランが「美味礼讃」で「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう」という言葉が紹介されている。
NANAにナナがバンドに参加してきた真一に「リスペクトしてるギタリストは?」と尋ねるシーンがあって、本質的には同じだろう。
例えばリスペクトする生物学者を3人上げろといわれたらどう答えるだろうか?
フランシス・クリック
梅園和彦
と一応
グレッグ・セメンザ
ということにしておきますがこの質問であなたがどんなヒトか当てることは可能だ。
本当なもう一人いるのだかが名前を書き込んだだけでぼくのiMacがぶっとんだら困るのであえて書きません。
ハリー・ポッターでヴォルデモートが”He who must not be named“と呼ばれているようなものですね。
先週のNatureに
HIF-1 antagonizes p53-mediated apoptosis through a secreted neuronal tyrosinase
Nature 465, 577–583 (03 June 2010) doi:10.1038/nature09141
が出ていました。線虫において低酸素誘導性のリモートプレコンディショニングにHIF-1が関わっているいるという報告です。皆が追試するだろうな。
ぼくの部屋でもやってみようと思います。戦略はもう立ちました。あとは誰が実験するかですね。