日曜日のエントリーの続きです。
論文(日本語か英語かは問わず)を書こうと思った人が最初に読むべき本は諏訪邦夫先生の
「論文を書いてみよう!」でしょう。
人前で話をしようとする人が最初に読むべき本はやっぱり諏訪邦夫先生の
「発表の技法―計画の立て方からパソコン利用法まで (ブルーバックス)」だと思います。
特に発表の技法は1995年に出版された本ですが今日的に全く問題なく通用する本です。
土曜日の朝からさっきまで24時間日当直でした。
はじめの7時間くらい普通に働いていてその後は特に麻酔業務には携わる必要はありませんでした。
研究室で院生と論文の書き方について少し話し合ったので備忘録として書いてみました。 以下は完全に最初から最後までぼくがコントロールをして論文の作業をする場合の工程です。
ここ数年はこのやり方でやっています。
論文を書く-ぼくの方法
何かを思いついて実験をしてある程度データが蓄積したということを前提としたものです。 どのようにしてテーマを探すのかなどについてぼくなどがアドバイスできることはありません。某臨床系学会でも「論文の書き方・指導の仕方」についてのありがたい講義があったようです。
道具
Mac
始めて買ったコンピュータがSE-30で以来Macしか使っていません。現在はiMacの数年前のものと二世代前のMacbook Air 11inchを使っています。以下に説明したアプリは両方のmacにインストールしてありますので基本的にどこで作業しても論文の執筆に関してはおなじ環境が使えます。 プロジェクトを思いついて最終的に論文になるまでの全てのファイルはDropbox内に保存しておきます。全ての実験結果や作業過程を保存しますので最終的に一つのfull paperの場合1GB程度のスペースを使うことになります
アプリ
- OmniOutliner
- OmniGraffe professional
- Papers
- Scrivener
- Pages
- MS Word
- Endnote
- Adobe Illustrator
-
Prism
などを使っています。アプリ間の連携の「型」ができあがっているので今のところこれを変えるつもりはありません。この際「無料」だとかそいうったことは無関係です。
辞書
普通の英和中辞典クラスの辞書に加えて以下の二冊は必携だと思います。初心者が,辞書を参照せずに文章を書くのは無謀です。
机の横にいつも置いてあります。
webサービスの
もよく利用しています。
前準備
実験を計画した段階でいくつかのキーワードの組み合わせでPubmedを論文検索をします。Abstractをチェックして一つの論文のために100編ほどを選びます。全て”Papers”に取り込みます。 さらに絞り込んで50編くらいは通読します。その過程でさらに文献が追加されていきます。これらから実験計画を立てていきます。これらの論文はPapersからEndnoteに出力して論文を書く際の資料とします。 作業仮説,それを証明するのに必要であろう実験やその他全て思いついたことはOmnioutlinerに書き出していきます。Macでの作業が全てではなく電車の中などでは持ち歩いているMoleskineの手帳に思いついたことは書き出します。手帳に手書きしたものは後にOmniOutlinerに自分で入力し直します。最近ではiPhoneのメモ機能を利用する場合もあります。
実験 データを集める
とにかく必要なデータが集まらなければ論文を書くことはできません。
実験データの整理
そろそろ論文にまとめてもよいと思うほどデータが集まればそれを整理していきます。
得られた実験結果が作業仮説と異なっていることは大きな問題ではありません。タダの作業仮説ですから替えていけばよいのです。 余りに予想と異なる結果が再現性を伴ってでてきた場合には研究室の別の学生に追試をしてもらうこともあります。
すでに発表されている他人の論文の結果とぼくらの実験結果が異なる事は大きな問題とは考えません。どんなprestigiousな雑誌に載っているデータでもいい加減なものはいくらでもあるからです。自分たちの目の前で何度も再現できる現象を信じないことには論文など書けません。
問題なのはデータ間の整合性がとれない場合です。原因を探りますがこの段階で「筋が悪い」ということでお蔵入りになる事もあります。また自分たちの過去のデータとの整合性も重要です。
この段階が一番大きな山でこれを越えれば論文を「書く」作業に入ります。
どの雑誌に投稿するかもこの段階で決めます。またこの山を越えたprojectは雑誌をえり好みしなければ必ず論文として出版できるということがぼくの信念です。臨床の症例報告なども一緒です。症例報告などPubmedに収録されれば雑誌の種類などほとんど問題になりません。お高くとまった雑誌より気前のよいOpen Journalに掲載される方がより多くの人に読んでもらえます。
文章を作っていく
内容や英語の書き方については多くの解説書が出ています。参考にしてください。ぼくはいまだに論文の書き方の新刊が出れば眼を通します。論文を書くのは自分はヘタでまた時間がかかるので少しでも改善したいと思っているからです。
ここではテクニカルな事だけ述べようと思います。
「前準備」でつくったOmniOutlinerの項目をさらに見直し細分化していきます。大体一つのパラグラフになるように細分化されたらそのパーツ毎にScrivenerで文章を書いていきます。 気がつけば引用文献もEndnoteから貼り付けていきます。
書き上がれば出力して一つのfileに出力して以後はPagesで推敲をおこなっていきます。
もうよしという段階でPagesからMS.Wordの.doc形式で出力して共著者へはこの形式で配布します。 最後に英文校正のサービスに出して投稿です。
図はIllustratorで作りますがこれについては今回は割愛です。
まとめ
よほどの能力がないと真っ白な画面に論文を頭から書き込んでいくやり方では途中でいろんな「ほころび」・「破綻」が生じます。 作業を細分化してまた焦点を意識的にしぼりこんで作業を始めることで少なくとも他人が読んで納得できる論理的な文章になっていくと思っています。
学会の抄録程度の長さの日本語の文章であってもこの作業を毎回繰り返します。 論文の「でき」は,初心者の場合ほとんどが「英語」の問題ではありません。どれだけちゃんと考えたかの問題なのです。多くの初心者は日本語は大丈夫と思っていますが大間違いです。
昨日の議論のまとめなので今日はこれくらいです。 Markdown記法でやってみました。
今月中に投稿したい論文があっていろいろとやっていたら新しいエントリーから遠のいてしまいました。今週木曜日-といってもお勤めは水曜日からです-から土曜日まで学会でこの期間中は落ち着いて論文に取り組むことは不可能ですのですこし気合いをいれて作業を進めてきました。
何とかなりそうです。
今月は最終週にまた一週間ほど某コンファレンスがありこれまた論文を書くという雰囲気からはしばし遠のきますので来週と来来週が勝負ということになります。
New York Timesに”Stone”というコラムがあります。
The Stone is a forum for contemporary philosophers on issues both timely and timeless.
という解説があります。
大きなくくりでは「臨床哲学」という分野となるのだと思います。
先週
Stone Links: Identity Check
というタイトルのエッセーがありました。
If your brain were transplanted into an organ donor’s brainless body, would you be getting a new body, or would you be losing a brain?
という問いかけから始まっています。
ちょっとベタな感じですよね。そう思って読み出したら結構面白かったです。
ぼくの恩師の一人に森健次郎 先生がいます(参照)。もう亡くなりました。
大学院を終わって麻酔科で助手-いまでいう助教でしょうか-をしている時代に結構いろんなことを話しました。
研究室に夜とか土曜・日曜日にいるとぼくの部屋に入ってきていろんなことを頼みもしないのに話してくるのです。
といういう訳で彼の若いときからその時分まので研究にぼくは大変詳しくなり教授退官最終講義-といってもホテルで行われたのですが-の内容で知らないことは無いくらいに詳しくなっていました。鶏はまだしもウナギの脳波を採ったことがあるとかウサギはストレスに弱いだとかいまでもいろんな事を覚えています。
脳死についても一家言有り-Miller’s Anesthesiaのbrain deathの項は森先生と関西医大の新宮先生と今は近畿大学にいらっしゃる中尾先生の共著となっています-いろんな話題を振ってくるのです。
まず手死・足死。石器時代には骨折しただけでエサを採る能力が低下して生き残れなっかたというのです。
どんどん時代が進み,腎不全になっても透析がある,肝不全になっても肝移植,心不全には心移植,呼吸不全には肺移植などが開発されてきているけど脳死で脳移植はないだろうということで脳死にたどり着くのです。
何度も同じ話を聞いていると一種の洗脳を受けたようになり森先生の視点がぼくの視点となってしまいました。
大学生の時に読んだ本で「中枢は末梢の奴隷―解剖学講義 (Lecture books)」というのがあります。養老 孟司さんが当時作家デビューしたばっかりの島田雅彦さんに「解剖学の講義をする」という形式で進む対談です。
タイトルがすばらしく今でもたまに読み返します。
週末に「ほんとうの診断学: 「死因不明社会」を許さない (新潮選書)」を読み切りました。
正確な診断なくして、よき人生はない
正しい診断を知ること、それは「いのち」と向き合うことである。Ai(死亡時画像診断)を提唱して医学界の改革を図る著者が、「検査」と「診断」の本質を徹底究明。正しい医療を受けるために必要な知識を解説しながら、市民社会への視点を見失い不毛な議論に終始する昨今の日本の医学研究を解剖、その欠陥を抉り出す問題作。
と紹介されていたのでどんな本か読んで見たくなり立ち読みもせずにamazonで注文してしまいました。
とりあえず「最終回答」というのははったりです。
しかし一方,Aiは実はかなり浸透してきているのではないかと思っています。
森先生が亡くなった二週間ほど前にぼくの父がぽっくり亡くなりました。
農作業中に倒れそのまま蘇生できずに死亡宣告です。二時間ほど心臓マッサージが続けられていたそうなのですが一度も戻らなかったようです。
ぼくが直接先生に「もう結構です」というまで続けようと考えていたようです。結局本当の死因は解らなかったのですが,頼みもしないのに地元の病院の循環器の先生は死亡した父の頭から下腹までCT検査をしてそのfilmを弟に託してくれていたのです。後でぼくが何かねじ込むとでもお考えだったのでしょうか。
ぼくが見たところ脳の出血などはなく,ぼくの自力では異常を見つけられませんでした。filmを京都に持って来て放射線科の先生に読んでもらおうと思っていたのですがいざ頼もうとして結局はいまだに頼まず仕舞いです。何か怖くなってしまったのです。
というわけでぼくは死因はなんとしても明らかになる必要も無いしAiで全てが明らかになるとも思っていません。
でもAiで医学は確実に前進するだろうとは思っています。
「ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書)」
も電車の中で読みました。
医学部の講義は全て必修です。工夫をして受講者を集める努力をする必要はありませんが学生は出席するしないを自分で判断して面白くない講義であれば途中からでも退席する人もいます。(参照)
今年は内容は変えずにすこし工夫をしてみようかと思っています。
というわけで今日はお終いです。
学会で見かけたら声をかけてください。特に怖くはありません。
木曜日の夕方にすこし怪しい集会がありこれは楽しみにしています。いやー実際何話したらいいのか解りませんよね。