今日の夜に,今度はじめる研究テーマについての意見交換を行いました。
結果が思うように出ればかなり大きな話になるとは思っています。たぶんあっさりうまくいくと思いますけど。

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少し前の”Science”に研究結果の再現性についての特集がありました。ここでもすこし紹介しました。

少なくとも自分の研究室でのデータの再現性こそ実験研究者が死守するべきものだと思います。
しかし実験結果が再現できないということはしばしば起こります。素粒子が研究対象であるような場合には対象に内在する問題があるのかもしれませんが,生物学では一般にそのようなことが原因という訳ではありません。
高尚な理論的な議論は置いて,量的な問題と質的な問題に分けてぼくの対処法を書いてみます。

量的な問題
1.他の研究室の実験結果と自分たちの実験結果に量的に異なる場合
例えば,ある物質がある遺伝子の発現を25倍は誘導すると他人が報告しているときに自分たちは5倍の誘導しか観察できない場合があったとします。このようなことはよくあります。RT-PCRで検討している場合でもreporterを用いる場合でも世界中で全く同一の実験系を用いているわけではありませんからこのような量的な差は容易に生じます。一般にこのような差を大きな問題として取り上げることはないと思います。
ただiPS cellみたいに効率が問題となる場合やニュートリノの速度のように量自体が問題となっている場合はあると思います。
いくら樹立細胞株でもepigeneticな変化が起きている可能性はあります。HeLa細胞,HEK293細胞と云ってもぼくらの研究室にあるものと隣の研究室のものとはある側面に置いては違いはあるかもしれません。

2. ある実験者のデータが量的にばらつく場合
一方自分で同一の実験系を用いていて例えばある時には25倍,またあるときには5倍となっているとすれば実験条件などを検討して改善を目指します。細胞の培養日数などをチキンとそろえる,温度をしっかりと管理するなどなど自分でしっかり実験をコントロールする必要はあります。こうした工夫の末,ばらつきがある範囲に収まればめでたしめでたしですがそうで無い場合はデータの扱いに悩むことになります。同じ研究室の別の人の”手”を借りることになるかもしれません。

質的な問題
これはすこし厄介です。

1.他の研究室の実験結果と自分たちの実験結果が質的に異なる場合
この場合気にする人は気にするかもしれませんがぼくはあまり気にしません。自分の研究室内で明確にで再現が取れるのであればそれを信じます。他人がやった事などどれくらいの精度で行われたのか解らないから問題にし無い場合がほとんどです。
2. 自分の研究室の過去のデータと現在のデータが質的に異なる場合
これは「1」に比べればよりシリアスな問題です。原因を探ります。PCRのprimerやplasmidに原因が見つかることもあります。細胞の培養方法に違いがありそれが原因のこともあります。とにかくこれは結構しつこく追究します。解決しない場合もありますしあっさり解決がつく場合もあります。
いくら樹立細胞株でもepigeneticな変化が起きている可能性はあります。HeLa細胞,HEK293細胞と云っても数年間のHeLa細胞,HEK293細胞とはおなじ出ない可能性はあります。
3. ある実験者のデータがある実験者で質的にばらつく場合
実験をはじめたばかりの実験者であれば「手」が安定するのを待つことになります。研究の方針を立てるためにまず上級者に実験を代行してもらうときもあります。それでも解決できなければ「筋が悪い」のでその実験はストップということもあります。

いろんな観点から再現性は挑戦を受けます。だから研究っていかがわしいと思う人もいると思います。
でも自分の研究結果が何百回も引用されていく過程を見るのはとても爽快です。

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土曜日の夜に皆既月食があり自宅で見物できました。
基本晴れの夜空に雲が漂い月食が重なり幻想的な天体ショーを堪能できました。いくら思い出そうとしても土曜日ほど見事な月食を過去に観たと記憶はありません。
現代の天文学の水準では,この月食が何日の何時から何時まで起こるのかを正確に予想できるわけですが(まさに天地明察です),少なくとも江戸時代にはこのような事は不可能でした。このような暦とか天体の動きを支配するのは「神」でありこれが正確に予想できると言うことは神の意志を代弁者と思われるのも無理は無いと思います。だからこそ暦を支配するということが重要視されていたのだろうと思います。

今日出勤の時に撮った写真です。

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古今和歌集に

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空

という歌があります。季節は違います-もちろん春にも似たような雲が観察できます-がおなじ光景を定家も見ていたのだと思います。

柴谷篤弘さんをテーマにしたシンポジウムが開かれるようです(参照)。

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今日は無風状態

On 2011/11/7 月曜日, in book, Lifehacking, by bodyhacker

朝から日当直です。
未明までの嵐の様な手術室-(参照)-とは異なり日曜日は朝から今まで無風状態です。このまま月曜日の夕方まで乗り切りたいです。

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昨日書店で見かけた「自分のアタマで考えよう」を電車内で読みました。

目次からわかるように、この本は、ちきりんが情報やデータなど何かの「知識」を得た時に、それをどう「思考」につなげているか、という“ちきりん流”「知識から思考への転換プロセス」について説明した本です。

とご本人も解説しておられます。
構成は次の通り。

<目次>

はじめに
序 章
「知っていること」と「考えること」はまったく別モノ
第一章
最初に考えるべき「決めるプロセス」
第二章
「なぜ?」と「だからなんなの?」と問うこと
第三章
あらゆる可能性を検討しよう
第四章
縦と横に比べてみよう
第五章
判断基準はシンプルが一番
第六章
レベルを揃えて考えよう
第七章
情報ではなく「フィルター」が大事
第八章
データはトコトン追い詰めよう
第九章
グラフの使い方が「思考の生産性」を左右する
終 章

 

知識は「思考の棚」に整理しよう
おわりに

この本の読者として「ちきりん」さんが想定しているのは近い将来就職活動をする予定の大学生と云うところかもしれませんがここでのknow-howというか方法論の適応範囲は日常生活全般に及ぶでしょうし例えば大学で行われている研究もその例外ではありません。
時間があったので目次に沿って少し書いてみます。

#「「知っていること」と「考えること」はまったく別モノ」

教科書に書いてあることや他人がすでに発表したことをいくら知っていていても研究者としてはどうにもなりません。このことを肝に銘じることは研究の初歩の初歩です。
むしろ知識をいったん「思考の舞台の外」に分離して自分のアタマで考えることが必要なのです。

#「最初に考えるべき「決めるプロセス」」

「「考える」とはインプットをアウトプットに変換することです」という言い方は実践的だと思います。

「実験」をたくさんしても「決める」つまり命題に解を与えることに結びつかない「実験」はタダの作業にしかすぎません。体力,精神力,時間,お金の無駄になる場合もあります。なので「決めるプロセス」を考えることは重要で,これを学ぶことが大学院の大きな課題の一つだと思います。

#「「なぜ?」と「だからなんなの?」と問うこと」
これにはうまいコメントが書けません。

#あらゆる可能性を検討しよう
構成要素に分解してあらゆる可能性を列挙できる力が付いていれば一人前です。

#「縦と横に比べてみよう」
これ重要です。本をじっくり読んで技法を理解して見ましょう。

#「判断基準はシンプルが一番」
判断の内容はいろいろあります。ぼくは研究で一番重要な判断は,プロジェクトを継続するのか打ち切るのかを決めるところだと思っています。ある程度十分な状況証拠があって始めたプロジェクトでも迷い道に入り込んでしまう場合があります。いろんな要素があるので判断が付きにくいときは2×2の単純なマトリックスを頭に描いて決めてしまうしかありません。

#「レベルを揃えて考えよう」
これって査読への反論の時に重要かもしれません。図44をよく吟味しましょう。

#「情報ではなく「フィルター」が大事」
自分独自の価値判断を持ってすべての事柄をフィルタリングする必要があります。
漠然と何かを解明したいという事だけではゴールにたどりつけません。「医学の発展に貢献したい」などという動機が如何に実際には役に立たないかを知ることになります。
テーマを選ぶ場合にも学問的な価値の他に,この仕事は一ヶ月で終わる一方これは一年かかるという判断をする必要があります。場合によっては「これはギャンブル」というテーマもありますがその場合,ある程度確実性の高いテーマと抱き合わせで望まないと学生をつぶすことになります。若くて資金が潤沢にある人はそれでも良いかもしれませんがそうで無い場合またあなたがポスドクや学生ならボスの根拠のない夢と心中する訳にはいかないでしょう。
また「フィルター」というか切り口をうまく創造してゲームの規則を決めることができれば一生食いはぐれることはないのだと思います。
あらゆる生命現象に「酸素が足りているかどうか」とそこから直接派生する事象からの観点を持ち込むことになったhypoxia-inducible factor の研究はその好例です。分裂酵母を材料に生命現象に切り込んでいった御大もその一人だと思います。

#「データはトコトン追い詰めよう」
データはまず自分で解釈しましょう。個々の実験データはinconsistentな場合があります。様々な原因があります。単なる技術的な未熟さが原因の場合もあるし本質的な事柄に起因する場合もあります。そのデータがどれくらいの確実度を持っているのかは実験をした本人しかわかり得ないことなのです。まず自分で質も含めてよく吟味するというプロセスを経ないとそのたびに整合性の取れないデータが並ぶだけで命題の解を与えることはできません。
その結果,他人が報告している実験結果が自分の実験結果が表面的に食い違ったとしても慌てる必要はありません。

#「グラフの使い方が「思考の生産性」を左右する」
ぼくはグラフで考えることはしませんが「KJ法」は今でも採用しています。 stickyな付箋紙に項目を書いて並べ替えたりして考えます。付箋紙を使わなくともOmniOutlinerで項目を書き出し順番や包含関係を考えます。

# 知識は「思考の棚」に整理しよう
まとめの章です。

また自分のアタマで考えることを研究を通して学ぶことが大学院の目的だと思います。そのためには必ずしも”有名”研究室に所属する必要はありません。「自分のアタマで考えよう」の方法論を愚直に実践することの方が重要かもしれません。

ただそう考えてくると「自分のアタマで考えよう」も「もしドラ」ー本は読んでいないのですが先日飛行機で映画を見ましたーも大して変わりが無いような気がしてきました。

自分のアタマで考えよう

御大柳田先生砲が炸裂です。どんどんやっていただきたいと思います。

今日の朝日新聞の朝刊の山形浩生さんによる「スティーブ・ジョブズ」の書評すごかったですね。当たっているだけに困ってしまいます。

仕事の事を考えるのは止めようと思っていたのですが今日の午後になり体調が良くなってきたし某原稿へのコメントも全部集まったので原稿の書き換えをはじめてしまいました。
いろいろと言ってくれる人がいるというのは本当にありがたいことです。
知っている人の研究に対してあれこれ言うことほど決意のいることはありません。ありがとうございました。

30日の午後から 1Q84を読み始めました。

book1の扉での引用

ここは見世物の世界

何から何までつくりもの

でも私を信じてくれたなら

すべてが本物になる

の意味がよく解ったような気がしました。

四年生の時小学校の教室で見つめ合い手を握りあった数秒間の交感の意味を信じて人生を送っている二人の愛の物語であり、一回でも確かに愛されたという経験があればその後の人生をその記憶を抱いて生きていけるという物語でもあります。

論文の作業をしながら、NHKが 2004年に放送したテレビ番組BSドキュメンタリー「史上空前の論文捏造」の再放送を見ました。

ヘンドリック・シェーンという若い科学者がnature, scienceなどを舞台に行った研究捏造の背景や顛末を当事者へのインタビューも交えて報告したものです。

番組はその後本にまとまったそうです。(論文捏造

この事件については聞いたことはありましたが他分野の出来事だったのであまり詳しく知りませんでした。番組をみてビックリしました。

そもそも誰も追試できないような研究はどこかで破綻するはずですから捏造の露見もあっけなく起こったようです。
日本でも作ってもいない knockout miceを使って論文を書いて某紙に掲載されたというスキャンダルがありましたが規模としては比較にならないくらい大きなものです。

この番組では、研究グループのリーダーも雑誌の編集部もこの問題での責任を明確に否定していました。
取材をうけた日本の研究者は研究グループのリーダーは責任をとって少なくともこの研究分野から身を引いてほしいとまで話していました。

誰も追試しないような研究、また誰にも引用されないような研究は露見しないという意味ではたちが悪いのでしょうが逆に何の影響も世の中に及ぼさないのですから問題としては小さいのでしょうか。科学者の倫理の問題としては等価なのでしょうが実際に問題になることは少ないですし問題になっても扱いは小さいしたいていはハラスメントとか学位の問題とカップルされた問題として現れます。

今日見たtweetがあります。(参照

あるブログエントリーの紹介です。
すばらしいpublication listと引用回数ですね。こういう人はどんどん出世していくのでしょうか。

しかし論文引用回数って実際にどういう風に研究者の評価につながるんでしょうか。研究費や研究ポストの配分でもこのような観点が考慮されることは実際は少ないと思います。

要するに何百回引用される論文を書いてもぼくには何にもいいことは起こらなかったのです。
ぼくは本当は掲載誌のimpact factorや論文の引用回数で科学者を評価するやりかたには反対です。また産業化への転用可能性を強調する風潮にも反対です。

夏目漱石の「三四郎」で東京に出てきた三四郎が野々宮先生を研究室に訪ねる場面があります。
青空文庫から引用してみます。

野々宮先生は三四郎に

「昼間のうちに、あんな準備をしておいて、夜になって、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの目玉のようなものをのぞくのです。そうして光線の圧力を試験する。今年の正月ごろからとりかかったが、装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的こらえやすいが、寒夜になると、たいへんしのぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。……」

という説明をするのですが三四郎はいっこうに要領を得ません。結局、

丁寧に礼を述べて穴倉を上がって、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかんかんしている。暑いけれども深い息をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の炎が、薄赤く吹き返してきて、三四郎の頭の上までほてっているように思われた。横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ

「三四郎」は医学に入ってから読んだのですがこの場面は強烈に覚えていて良く思い出します。こういうことに関わったことのない人には研究室は一種の「穴倉」です。
手術室も一種の「穴倉」なのですがこれに関しては今日はパス。

要するに研究でも「愛」と「信じること」が重要なのだと言いたいのですがこれくらいで止めておきます。

ホント暗くなってきましたね。
朝起きて手術室で麻酔をしてその後研究室で時間を過ごす人生を、でも、もうしばらく研究続けますよ、ぼくは。

いよいよ「合唱」がはじまりました。
( #artsforall live at http://ustre.am/rBPl)

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