仕事の事を考えるのは止めようと思っていたのですが今日の午後になり体調が良くなってきたし某原稿へのコメントも全部集まったので原稿の書き換えをはじめてしまいました。
いろいろと言ってくれる人がいるというのは本当にありがたいことです。
知っている人の研究に対してあれこれ言うことほど決意のいることはありません。ありがとうございました。
30日の午後から 1Q84を読み始めました。
book1の扉での引用
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
の意味がよく解ったような気がしました。
四年生の時小学校の教室で見つめ合い手を握りあった数秒間の交感の意味を信じて人生を送っている二人の愛の物語であり、一回でも確かに愛されたという経験があればその後の人生をその記憶を抱いて生きていけるという物語でもあります。
論文の作業をしながら、NHKが 2004年に放送したテレビ番組BSドキュメンタリー「史上空前の論文捏造」の再放送を見ました。
ヘンドリック・シェーンという若い科学者がnature, scienceなどを舞台に行った研究捏造の背景や顛末を当事者へのインタビューも交えて報告したものです。
番組はその後本にまとまったそうです。(論文捏造 )
この事件については聞いたことはありましたが他分野の出来事だったのであまり詳しく知りませんでした。番組をみてビックリしました。
そもそも誰も追試できないような研究はどこかで破綻するはずですから捏造の露見もあっけなく起こったようです。
日本でも作ってもいない knockout miceを使って論文を書いて某紙に掲載されたというスキャンダルがありましたが規模としては比較にならないくらい大きなものです。
この番組では、研究グループのリーダーも雑誌の編集部もこの問題での責任を明確に否定していました。
取材をうけた日本の研究者は研究グループのリーダーは責任をとって少なくともこの研究分野から身を引いてほしいとまで話していました。
誰も追試しないような研究、また誰にも引用されないような研究は露見しないという意味ではたちが悪いのでしょうが逆に何の影響も世の中に及ぼさないのですから問題としては小さいのでしょうか。科学者の倫理の問題としては等価なのでしょうが実際に問題になることは少ないですし問題になっても扱いは小さいしたいていはハラスメントとか学位の問題とカップルされた問題として現れます。
今日見たtweetがあります。(参照)
あるブログエントリーの紹介です。
すばらしいpublication listと引用回数ですね。こういう人はどんどん出世していくのでしょうか。
しかし論文引用回数って実際にどういう風に研究者の評価につながるんでしょうか。研究費や研究ポストの配分でもこのような観点が考慮されることは実際は少ないと思います。
要するに何百回引用される論文を書いてもぼくには何にもいいことは起こらなかったのです。
ぼくは本当は掲載誌のimpact factorや論文の引用回数で科学者を評価するやりかたには反対です。また産業化への転用可能性を強調する風潮にも反対です。
夏目漱石の「三四郎」で東京に出てきた三四郎が野々宮先生を研究室に訪ねる場面があります。
青空文庫から引用してみます。
野々宮先生は三四郎に
「昼間のうちに、あんな準備をしておいて、夜になって、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの目玉のようなものをのぞくのです。そうして光線の圧力を試験する。今年の正月ごろからとりかかったが、装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的こらえやすいが、寒夜になると、たいへんしのぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。……」
という説明をするのですが三四郎はいっこうに要領を得ません。結局、
丁寧に礼を述べて穴倉を上がって、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかんかんしている。暑いけれども深い息をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の炎が、薄赤く吹き返してきて、三四郎の頭の上までほてっているように思われた。横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ
「三四郎」は医学に入ってから読んだのですがこの場面は強烈に覚えていて良く思い出します。こういうことに関わったことのない人には研究室は一種の「穴倉」です。
手術室も一種の「穴倉」なのですがこれに関しては今日はパス。
要するに研究でも「愛」と「信じること」が重要なのだと言いたいのですがこれくらいで止めておきます。
ホント暗くなってきましたね。
朝起きて手術室で麻酔をしてその後研究室で時間を過ごす人生を、でも、もうしばらく研究続けますよ、ぼくは。
いよいよ「合唱」がはじまりました。
( #artsforall live at http://ustre.am/rBPl)
昨日一日ボーッとしてしまい計画の半分しか消化できませんでした。
来週早々、某研究成果報告書の締め切りやその他いろんな締め切りが迫ってきています。
論文の作業も進めなくてはいけないしかなり精神的だけでなく肉体的にもテンパッています。
夕方から頭痛でボルタレンでなんとかなりましたが明日以降不安要因ですね。頭痛がするとSAHではないかと最近よく思います。
さて昨日家でボーッと本の整理をしていて1981年に380円で買った
知の旅への誘いを読み返すことになりました。
人はなぜ旅に出るのだろう.惰性化された日常生活を変え,いきいきした生を回復するためではないか.とすれば固定化した文化現象を根底的に乗り超える〈知〉の本来的なあり方は,まさに旅の過程そのものである.〈知の旅〉の達人である哲学者と文化人類学者が,世界を駆けめぐり時間をさかのぼって自らの旅のユニークな軌跡を語る.
という宣伝文句がついている古典的な名著だと思います。
大学生のときに引いた線がはいっている本で今読み返すと恥ずかしいのですがすごくヒットされました。
明日以降時間があればぼくがどうヒットされたのか書いてみようと思います。
現在は735円で買えるようです。
いずれにせよ安いです。
今日Natureをめくっていたら 2月に米国のUniversity of Alabama, Huntsville校であった例の事件についての結構長い記事がありました。
これは読んでしまいました。
Universities: Life after death
どうでもいいけど時間ください
昨日の午後一時過ぎ患者さん出しがちょうど30分おくれてキム・ヨナ が滑るところを見ることができました。見終わるとすぐに患者さんが来て浅田真央さんの滑走は見逃しました。一緒に観戦していた看護師さんや先生がみな浅田真央さんのことを自分の娘のように応援していました。
キム・ヨナにしても韓国の期待を一身に集めて滑っていたわけでこのような圧力に打ち勝たないとオリンピックチャンピオンには成り得ないのですからすごいものです。
New York Timesでの報道で知ったのですがキム・ヨナは数年前からトロントをベースにトレーニングを続けているのだそうですね。浅田真央にしてもキム・ヨナにしてもコーチは自国人ではないしこれで国民の代表といわれてもピンとこない部分もあります。
はてな ID what_a_dudeさんのブログエントリー(日本の論文の質の変化について)を偶然読みました。このエントリーは直接には”日本は「質」の低い基礎科学研究論文を「量」産する国でしかないのか:ISIトムソン・ロイターズのデータが示すもの – 大「脳」洋航海記”を受けて書かれたエントリーであり読み進む前提として両エントリーを読むことをおすすめします。引用はぼくが恣意的に行った場合があります。
研究の評価をどう行うかという問題は単純でありません。
国際比較をはじめ大学単位、講座単位、研究室単位、最後は個々人の研究者の評価は簡単ではありません。
研究の評価に定量的な指標を持ち込まれば客観的な評価の助けになるという考えはたぶん正しくそのような目的で様々な指標が導入されています。
impact factorなどはその代表で基本的には個々の論文が他の論文に何回引用されたかに基づいて計算されます。雑誌ごとに数字が出てくるのですがこれとても雑誌間の評価というか競争でしょう。またISIトムソン・ロイターズなどはこれで収益をあげている会社です。
両エントリーともこのような公表された客観的な指標を用いた考察をしていて非常に解りやすい内容になっています。
クソみたいな研究者が多いのに、
競争的資金の割合はアメリカの半分程度、というのも
Productivityが低い原因の一つでもある。10年に1本も論文を書かない連中が
50%もいると思うと正直なんだコレって感じですね。
日本は「質」の低い基礎科学研究論文を「量」産する国でしかないのか
では
ここでは純粋に国・地域ごとにPaper(総論文数)・Citation(総被引用数)・Citation/Paper(総被引用数vs.総論文数の比率)とでチェックしてみました。なお、ここで統計に用いられているデータは1999年10月~2010年1月までのものです。
を調べた結果
これはやはり日本の研究は「量」はあっても「質」が低いということを如実に示す統計だろうと思います。それは、総論文数で2位、総被引用数で4位と「量」の面では非常に好成績であるにもかかわらず、「質」を表す総被引用数/総論文数比率で見ると35位にまで落ちる点から見ても明らかです。先日のエントリで明らかになった傾向と合致する結果であるようにも見受けられます。
といった風です。
両者で共通しているのは客観的なデータを議論の前提としていることです。
いくら論文を書いても”論文数”だけでは評価できないまたいくら引用回数の高い論文を書いても”引用回数”だけでは何も評価できないというような理不尽な理屈の前では議論は無効です。
このような国レベルでの評価だけでなく個々人の研究者の評価に客観的な指標を利用すべきだと思います。
またこれは評価を受ける側だけでなく評価をする側にも適用すべきと思います。
基本的な科学研究費補助金の審査たとえば麻酔科学領域の研究申請書の評価は各大学の麻酔科学講座の”教授”が行っています。
教授の業績の質と量があるのかについての情報が開示されているわけではありませんが、全国の麻酔科講座の教授の業績を国際標準で評価することは可能ー 個人レベルで簡単にできます というか10人分くらい調べてみました ーであり”平均的なProductivityが異常に低い上に出す論文もクソレベルな研究者”には審査を受けたくないと本気で思うような人もいます。そういうひとは審査に関わっていないと思うしかありません。
純粋に定量的な指標を研究者の評価にどんどんと導入してもらいたいと思います。これで文句があるなら頻用回数のあがる論文を書けばいいのです。
ビッグラボの出身で七光りをあびて研究を進めている研究者とそれが無い研究者ではそもそも出発点が異なります。金とポジションありきでキャリアを始めることのできる研究者が現実に存在します。”伯楽”に見いだされた”白眉”ということでまあ大目に見るということもできますがその他は普通の研究者です。
女子カーリングの決勝戦を途中から観ました。スウェーデンのスキップのような小憎らしいおばさんに目黒さんがなったときに日本も強くなっていると思います。頑張れ日本。




