昨日の当直は辛うじて昨日のうちに終わり寝たはずなのですが,夜中にPHSが鳴った様な気がして起きてしまいそれ以後眠れなくなってしまいました。一回起きてしまうとやはり当直室は寒く感じられこれでいかんと思い早々に研究室に移動してエアコンのスイッチを入れてオイルヒーターで暖をとっていました。困ったものです。

IMG_2366

New York Timesを読んでいたら面白い記事というかエッセイを見つけました。
アメリカの元財務長官でハーバード大学の学長もしたサマーズ氏の”What You (Really) Need to Know“というタイトルです。
時代が変わっているのだから教育システムも変わる必要があるということを主張した文章です。
このエッセーを巡って紙上debate(“English Is Global, So Why Learn Arabic?“)も開催されています。

主張が箇条書きにされているのですが少し引用してみます。(ぼくが一部を太字にしました)

  1. Education will be more about how to process and use information and less about imparting it. This is a consequence of both the proliferation of knowledge — and how much of it any student can truly absorb — and changes in technology.
  2. An inevitable consequence of the knowledge explosion is that tasks will be carried out with far more collaboration. As just one example, the fraction of economics papers that are co-authored has more than doubled in the 30 years that I have been an economist.
  3. New technologies will profoundly alter the way knowledge is conveyed. Electronic readers allow textbooks to be constantly revised, and to incorporate audio and visual effects.
  4. As articulated by the Nobel Prize-winner Daniel Kahneman in “Thinking, Fast and Slow,” we understand the processes of human thought much better than we once did. We are not rational calculating machines but collections of modules, each programmed to be adroit at a particular set of tasks.
  5. The world is much more open, and events abroad affect the lives of Americans more than ever before. This makes it essential that the educational experience breed cosmopolitanism — that students have international experiences, and classes in the social sciences draw on examples from around the world.
  6. Courses of study will place much more emphasis on the analysis of data. Gen. George Marshall famously told a Princeton commencement audience that it was impossible to think seriously about the future of postwar Europe without giving close attention to Thucydides on the Peloponnesian War.

まあこれってよく言われることですよね。ちきりん氏の「自分のアタマで考えよう
」でも同じような主張はされています。でもサマーズ氏がこのようにまとめると権威あります。

このエッセーでサマーズ氏は

English’s emergence as the global language, along with the rapid progress in machine translation and the fragmentation of languages spoken around the world, make it less clear that the substantial investment necessary to speak a foreign tongue is universally worthwhile. While there is no gainsaying the insights that come from mastering a language, it will over time become less essential in doing business in Asia, treating patients in Africa or helping resolve conflicts in the Middle East.

と述べているのですがこの部分について紙上debateが行われています。

たぶん近い将来にに日本語をしゃべったり書いたりするそばから英語やフランス語に翻訳されていくシステムができると思います。
留学をしない,しなくてもよい理由をいくら並べてみても栓がありません。当たり前ですが英会話がうまくなるために留学するわけではありません。より広い視野を獲得するために留学するのですから。

Nature Cell Biologyに
The LIMD1 protein bridges an association between the prolyl hydroxylases and VHL to repress HIF-1 activity
Nature Cell Biology (2012) doi:10.1038/ncb2424
という論文が出ていました。これは面白いです。しかしこの論文はぼくらの2001年の論文の解析の途中でもある程度予想されていたような事象だと思います(参照-Web of Scienceの統計では507回引用されたようです。)。

今年も「キアドラ」が届きました。

IMG_2368

医学界新聞を読んでいたら”Experimental Design for Biologists“の邦訳「バイオ研究のための実験デザイン -あなたの実験を成功に導くために」が出ているのを知りました。日本語は読んでいませんがよい本だと思います。

バイオ研究のための実験デザイン -あなたの実験を成功に導くために

このエントリーをはてなブックマークに追加

Tagged with:  

日経メディカルの記事

「基礎医学の教授に医師がいなくなってもいいのか」九州大学医化学分野教授 横溝岳彦氏に聞く

を読みました。

センセーショナルなタイトルなのですが要旨は医師免許を持つ基礎研究者の数が減っているという事実がありその背景や将来的な影響について横溝先生へのインタビューをまとめた内容です。

先生はこの事態を困った事態だととらえているようです。

この問題は日本の大学の制度と深い関係があると思います。

日本ではそもそも医学生に対する教員の数が例えば米国と比較して少ないということがあります。

例えば,平成21年に国立大学医学部長会議が当時の内閣総理大臣 麻生氏と文部科学大臣 塩谷氏に以下の様な内容の要望書を提出しています。

  1. 人口当たりの医師数を国際水準に引き上げるために、国立大学医学 部入学定員を大幅に増員すること
  2. 医学部教育の質を維持するために、学生あたりの医学部教職員数を 国際水準まで増員すること
  3. 前項に準じて、学生定員増にみあった教育施設の整備、教育経費の 措置をおこなうこと

日本では例えば生化学の授業は一般的には一つか二つかの講座に所属する教員が講義や実習を担当します。

基礎医学の講座の教員ですから大きな講座でも総勢5人もいれば大講座です。

このような状況で,研究能力を主に基準として雇用されている教授をはじめとする教員が教育への熱意や能力に欠けている場合があると講義はうまく成立しないかもしれません。これは教員が医者であるかどうかの以前の問題となります。さらに研究能力と教える能力が必ずしも相関はしません。つまり研究能力は高くとも学部学生を教育するー基本的な知識を効率よく伝授することー能力が高いとは言えない場合があります。この逆ももちろん成立します。

医学教育とくに基礎的な医学教育では特に最先端の知見を学生に伝授すると言うよりは医者として診療に関わる際に必要な生化学,生理学などの原理を実習と共に学んでもらうということが求められます。ここで教員が医者であるかどうかがここで大きく問題になることはぼくは無いと思います。

この知識の伝達が上手に出来る人であればだれでも”よい”講義をすることが出来るはずです。こういったことのための教員を雇えば良いのだと思います。

こう考えてくると現在の医学部の授業はもっと効率的にできると思います。

所属大学の教員が講義を行わなくとも内容を練りに練ったビデオを利用した講義を自由に学生に受講させることは十分可能です。この際講義内容に多様性など必要はありません。基本的な知識が正しく伝達されることがまず重要なのです。話が面白いだけの講義を聴いても最低限の目標さえも達成できない場合もあります。
そう考えると医者を養成する医学部も要らないと言うことになるのかもしれません。

まとめると,教員の数が学生の数に対して十分であり授業も効率的に行われれば「教授」が医者であろうがなかろうが大きな問題にはならないし現代的にはいくらでもそれを克服する手段が存在すると云うことです。

あくまでも医者を養成するという観点からですが,ぼくは基礎医学の教授に医師がいなくなってもいいと思います。

この問題とは別に医者が基礎研究をしないというのは問題だと思います。

研究レベルに関して言えば、医学部出身ではないPhDが研究室にたくさん入ってきていることは、決してネガティブな要素ではありません。しっかり研究をデザインして結果を出す能力は、むしろ理学部や農学部出身者の方が高いと思うので、その点は問題ではありません。懸念しているのは、大学の最も重要な機能である教育に支障が出るのではないということです。

と横溝先生はおっしゃっていますが,これにはぼくは与しません。
医学研究には米国でいうMD/PhDとかMD scientistが果たす役割が基礎医学研究においてさえもまだあると思います。臨床医学の現場で得たある種の能力は研究の遂行を利することはあってもそれの障害となることは無いと思っています。その意味では医者の免許を取得して二年間の臨床研修を終えることにはその後基礎研究の道に進む者にとっても大きな意味があると思います。医者はもっと基礎研究に関与すべきなのです。一時期にせよ患者と向き合った経験がある者でないと気づかないことはたくさんあります。そのための基礎研修の二年は決して遠回りでは無いと思います。

今は、博士号という資格と専門医という資格を天秤にかけたときに、どうしても専門医の方が優先されます。若い医師が専門医を取ることに集中してしまって、研究の楽しさや醍醐味を味わわないままに、30歳を過ぎしまう。それなりの臨床のキャリアを積んで、家族がいて、子供がいてという状況で、大学院に入り直して研究のイロハから学ぶというのは、現実的になかなかできない。研究というのは、お金も時間もかかりますから。それが一番大きい原因だと私は思います。

これはどの診療科の専門医かによります。麻酔科の専門医を取得するのはまだまだ簡単です。帝王切開の麻酔をしたことのない専門医でもOKですし,肺動脈カテーテルを挿入したことがなくともOKです。

また大学院生の方がよほど効率よく稼ぐことが出来る時代になっていると思います。

年齢の問題は確かに深刻です。
ぼくも大学院を出て大学病院で助手をしてながらうろうろしていたら35歳過ぎていました。

様々な奨学金や「若手」を対象としたグラントなどに年齢制限が厳然として存在します。外国のグラントは博士号取得から何年というような制限はあっても実年齢をもっての制限があるものは少ないと思います。まるで医者を何年かやった者は研究にたずさわるなと言っているようなものです。

基礎研究を盛んにするために提案です。

東京大学の医学部の卒業生は臨床研修終了後,5年間は臨床医をするのを禁止してはどうでしょうか。全員が何らかの研究に従事するのです。これだけで日本の医学研究の底上げできるとぼくは思います。
医者でないものが基礎医学の教育にたずさわることの是非よりもっと重要な事だと思います。

あるブログエントリーを読みました。(阪大医学部の不正経理について思うこと
大阪大学医学部で起こった研究費の不正経理に関する論考です。

起こったことは新聞報道もされました。
lazybones氏は

研究費が一部の研究者へ集中することの弊害が、研究者自身によって的確に指摘されている。「金余り現象」を生み出す一部の研究者への研究費集中、これを排除するための方策を立てることが焦眉の急であろう。

と主張しておられますが,金を持っていない研究者もいくらでも不正をします。
これは論文の捏造と同じです。大きなお金がからむ不正は摘発されると影響は大きいです。新聞報道もされます。
捏造も舞台がNature, Cell, Scienceなどだと大きく取り上げられますが,誰も知らない雑誌であれば問題とならない場合もあります。しかし等しく不正は不正です。

ちょっと10万円余っているからモニターを買うと称してテレビを買って研究室ではない場所に置いておくなど実際にある事です。逆にどう考えても不正ではないと思う支出に対しては疑義を呈されて何枚も意見書を提出させられました。今日も書きましたし。時間だけどんどん取られます。気分も悪いし。ほんと暴れたくなります。

また不正の告発はなかなか難しいです。

皆が日常的にやっていることに目くじらを立てすぎるとぼくみたいに妙なe-mailを送りつけられ,研究所から追い出される羽目になります。

困ったことのような気もしますが,それが実情だと言うことだと思います。

それにしても阪大のおっちゃん好き放題にやっていたんですね。

年に3回くらいは海外の学会に出席してもバチは当たらないような気もしますが”バカ”な教員にはその時間が与えられません。

麻酔科関連の学会でも出ているのは日本麻酔科学会の学術集会と地方会くらいです。あとはせっせと麻酔しています。

http://farm6.static.flickr.com/5092/5441348276_819043532e_m.jpg

Prolyl hydroxylase 3 (PHD3) is essential for hypoxic regulation of neutrophilic inflammation in humans and mice.

J Clin Invest. 2011 Feb 7. pii: 43273. doi: 10.1172/JCI43273.

こうなるとますます混迷が増してきますね。でも面白いです。
FIH-1ネタも一つ
von Hippel-Lindau Protein Adjusts Oxygen Sensing of the FIH Asparaginyl Hydroxylase.

Int J Biochem Cell Biol. 2011 Feb 10. [Epub ahead of print]

タイトルだけ見て卒倒しかけました。でも読んで安心しました。これはおタッキーな論文なので面白くないと思う人がほとんどだと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加

Tagged with:  

創立記念日

On 2010/6/19 土曜日, in Thus Spoke Dr. Hypoxia, by bodyhacker

昨日6月18日は所属大学の創立記念日で病院も連動して休診で
予定手術はありませんでした。

前日木曜日は当直でした。長い手術が12時くらいに終わり研究室でやれやれと一息ついていて机で寝てしまいPHSの音で起きたのが 1:30くらいですぐに始まる帝王切開がありました。昨日はこれも入れて二例の帝王切開がありました。何例やっても緊急でも予定でも帝王切開は緊張します。

二例とも無事終わって寝たのが4時過ぎで、起きたのが6時半くらい。

すこしボーとして術後インタビューで病棟をめぐり当直の引継ぎをして電話での術後インタビューを終えて金曜日の仕事はおしまい。

当直のあとで麻酔がないのはすごくうれしい。

創立記念日といっても大学院生にとってはただの平日ですので9時くらいには全員集合。

11時半からすこしではなくかなりseriousな内容の臨時lab. meetingを済ませてみなで昼食に出かけたりしてかなり充実した一日を過ごせました。
論文の作業もかなり進みました。

IMG_6006

十両のよこわ定食です

先生方にお願いしていた症例報告も二つ初稿が来てすこし気合を入れてこなしていく必要があります。

今日のような時間が周囲に一日でもあれば進むのですが…

New York TimesにRethinking the Way We Rank Medical Schoolsという記事が載っていました。
職場は大学病院であり全国各地から患者さんが集まります。さまざまな理由はあると思いますが、大学の権威を求めてはるばるやってくる患者さんがおられることは確かです。
現実の所属大学の医学部の医学科は入学試験が最高に難しいと一般には考えられていますし、長い歴史の中で数々の大きな業績が基礎医学・臨床で生み出されてきたことも事実です。医学部ではありませんがノーベル賞学者を何人も輩出してきてもいます。
このような外形的な権威が患者さんをして職場への受診を促していることは事実だと思います。
記事でも指摘されているように

The thought process was easy — good school, good doctor; bad school, bad doctor.

という思考過程です。

しかしそれは一面的にすぎるというのがこの記事のまたこの記事で紹介されている論文(The Social Mission of Medical Education: Ranking the Schools Ann Intern Med June 15, 2010 152:818-819)の趣旨です。

米国の医学校は非常に多様である特に”social mission”への貢献度でその差が著明であること、主に研究資金の額や主観的な学校の”評判”に基づいたランキングとsocial missionへの貢献度のランキングには大きな異同があるというような内容が紹介されています。

ぼくらの大学の学生の教育は従来はあまり熱心とはいえないものでした。学生の能力が高いので適当に放っておけば国家試験など合格したいと思う学生は適当に勉強して結局は合格するという放任主義だったと思います。それより学術的にレベルの高い研究環境に学生が置かれることで自分で何かを学んで、基礎研究、臨床研究を通じて医療を変革するリーダーが育つのだという信念のようなものを教員が持っていてそれでなんとかつじつまがあってきたのだと思います。
これからの時代にこういう考えが通用するのかまたやはりこういう考えが正しいのかが検証されていくのでしょうか。

NYTにはこんな記事
もありました。

また毎度ながらひどい新聞報道です。

【毎日jp】都立府中病院の医療事故:点滴速度10倍に、男性患者死なす 看護師書類送検 /東京 http://bit.ly/doVIGe

このエントリーをはてなブックマークに追加

Tagged with:  
madeonamac.gif Creative Commons License