先週の出張中に溜まりまくっていた雑用などなどをほぼかたづけました。
昨日の夕方,JYさんと2時間ほど話しました。すごく久しぶりです。我ながら2時間も話すことがあるのがすごいなと思いました。

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先週の火曜日6/26から金曜日6/29にかけて札幌市郊外のホテルで開催された第33回内藤コンファレンス “Oxygen Biology: Hypoxia, Oxidative Stress and Diseases“に参加しました。

酸素代謝またはそのシグナル研究に関わる内外の研究者を網羅した大変中身の濃いカンファレンスで堪能しました。カンファレンスの計画や実行にあたっていただいた皆さんに感謝します。

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ぼくは大学院時代はthioredoxinというレドックスシグナルの調節に関わる蛋白質の研究をしていてその時分に知り合った先生にも多数声を掛けていただきました。また低酸素研究領域ではがんとハイポキシア研究会での仲間との再会を果たすことができました。一種の同窓会のようにもぼくには感じられました。

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参加者の一人GLSさんにHypoxiaとOxidative Stressの研究者が集まる会はありそうで実際にはあまりないのではないかと話したら1996年に慶応大学で第一回のInternational Symposia for Life Sciences and Medicineとして開催されたOxygen Homeostasis and Its Dynamicsもこういった会だったのではないかと指摘されました。そうなんですよ。GLSさんと初めて会ったのは16年前の冬の東京だったのです。(参照)。あの時も食べ放題呑み放題で歌舞伎ツアーもありましたね。事務を仕切っていたのが末松先生でした。

いわゆる有名人が沢山参加していました。

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低酸素研究分野では,いつもの大御所3人の他にSiahのRonai氏も参加してくれました。一方,何気にp38 MAPKやAKT(本人はProtein Kinase Bと叫んでいましたが)の発見者が目の前でしゃべっているという豪華版でした。

best presentationは東北大学の本橋先生のものだと個人的には思いました。内容もよかったですがpresentationのできも最高でした。できのよい研修医はあのようなpresentationをしますね。
ぼくはいくら練習してもあんなに上手には話せません。脱帽です。

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札幌市と石狩市の境界近くで足かけ4日間ほぼ缶詰状態で過ごすので当然的に様々な相互作用が生まれます。日頃思っている素朴な疑問なども気兼ねなく質問できます。
ぼくらの研究仮説があるのですが何人かの参加者に考えを披露すると「それはないだろう」と云われ却ってやる気がでました。だってあれしか結論はないんですよ。
また日常の臨床生活からあまりにもかけ離れた環境に置かれるので日頃考えもしないいろんなことを思いつきます。一種のbrainstormです。とにかく病院にいると暴力的に鳴るPHSですべてが中断されてしまいます。こういうカンファレンスの最大の利点だと思っています。

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もしこれからも研究を続けるチャンスがあれば,thioredoxinのプロジェクトも再開しようと思いました。その昔はアミノ酸配列を暗記していたほど入れ込んでいた分子です。研究についてのノウハウはぼくは持っているはずです。
今回は北海道と言うことで「羊をめぐる冒険」の文庫本を持って行きました。

「羊を探し出せばいろんなことがうまくいくわ」

最後に気づいたこと。
GLSさんが元気だったこと。プールで泳いでいたときいたので本人に確認したら夜も泳ごうと思ったけどそれはやめたと云うことでした。飛び廻りすぎて突然死しないように気をつけてください。
LPさんが日本に住んでいないと解るはずの無いような絶妙なギャグをいつもの通りに飛ばしていたこと。
このブログの読者の方々と話してすごく恥ずしかったこと。
などなどです。 朝から食べて続けて深夜まで呑み続けて2kgくらい太りましたがここ4日くらいで元に戻しました。
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Priscilla Ahnのカヴァー集『ナチュラル・カラーズ』がiTunes storeで配信されいました。
驚異的に日本語が上手だと思います。歌もうまい,すくなくともユーミンよりうまい。
「ばらの花」とかよく選びましたね。びっくり。

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あと一廻り早く生まれていたら…

On 2009/9/15 火曜日, in Thus Spoke Dr. Hypoxia, by bodyhacker

休み終わっちゃいました。

New York Timesから

Ghostwriting Is Called Rife in Medical Journals

Lasker賞は Gleevecのチームも受賞なのですね。iPS cellもすごいけど。

個人的には epigeneticsでノーベル賞がそろそろ出ていいと思っています。iPSは今年でなくとも確実は確実だろうし …

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「1968」読了しました。

冒頭の一文「感動しました。とてもすばらしいです。でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?」からはじまってこの文章で終わる 2000ページ超の大著ですーといっても上・下それぞれ100ページほどは”注”と索引になっていますー

第5章 慶大闘争

第14章 1970年のパラダイム転換

第15章 ベ平連

これらでは知らないことも多く参考になりました。

ベ平連の中心に小田実でなく石原慎太郎をという意見もあったというのは悪い冗談の様な気もしましたが当時はそういう作家だったのでしょう。

ぼくがあと一廻り早く生まれていたら、検証された「1968年」に間違いなくどっぷりと関わっていただろうと思うと同時に一廻り早かったら大学に進むことともなく今とはまったく違う人生を歩んだことになっていた可能性もあったと思っているので改めて考えさせられました。

結局遅れてきたぼくの「1968年」は何かと考えると「研究」が当たるのではないかと考えた。

特に深く考えることもなく医学部に入学してそのまま卒業して医者になったのだが入学してから人生で一度は「研究」というものを体験してみたいと考えていた。「真理」の探求とか研究を通じての人類への奉仕とかそういたことはあることはあったと思うがそれより人生で一回は研究生活をしてみたいという気持ちの方が強かったと思う。ー高校生の時にPOMCのプロセッシングの大きな仕事で沼先生と中西先生が「科学朝日」(朝日新聞が出していた一般向けの科学総合誌です)で取り上げられているのを見て京都大学への進学を決めたのですー

つまり「感動しました。とてもすばらしいです。でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?」である。

そういう理由だったので医師免許を取得して丸4年臨床に専念し、その当時の水準でいえば一通りの手術麻酔は自分ですることができるという自信もついたところで大学院に進学した。

いろんな経緯があって、麻酔科内の研究室でなく京大のウイルス研究所の研究室にお世話になることになった。このときの経緯は以前に書いたことがあったと思う。

またこれも以前に書いたのだが、4年間は一つの論文もなくほぼ啼かず飛ばずのどうしようも無い大学院生だった。不思議とそれに対しては特に焦りもなく毎日実験に励んでいた。自分のやっていることが価値があるとか無いとか役に立つとか立たないとかを考えた事も無かった。将来への展望とかそういったものは全く持っていなかった。臨床医だったので路頭に迷うことはないだろうとは考えていたということもある。この時期は研究というより実験することそれ自体が態度の表明であり、意味をもつ運動であった-一種の中毒である-。

そうこうしているうちに4年が過ぎ結局は京大の麻酔科で働くことになったー引き取られて行ったというのが正しい表現かもしれないー。学位の為の研究は完成はしていなかったので実験材料とともにウイルス研から引っ越した。

そこから3年3ヶ月はたぶん人生で一番働いた時期だった。集中治療室で働く、麻酔をする加えて救急車の対応もしていた。CPA, 農薬中毒、全身熱傷、腹腔内出血などかなりの患者が救急車で運ばれてきた。ホットラインへ連絡があり、4階から1階の救急外来に降りて救急車を迎えるときのあの感じは今でも鮮明に記憶している。救急車の進入口が研究室の真下なのですが救急車が到着すれば救急外来に出かけたりということもあった。のぞき込むと胸部圧迫をしてる姿が見えるので放っておくわけには行かなくなるのだ。

当直は集中治療室でしていたので当直中は部屋の外にでるのは救急外来か病棟で患者を診るときだけで研究室には戻れなかった。これに加えて研究活動も継続していた。

程なく学位を取るための論文が完成したーこの論文はぼくの関わった論文のうちの最高のものだと自分では今でも考えているー。麻酔科での指導者はいなかったので学位の講演会の予行演習などもなしで自分だけで臨んだ。

ここで転機が訪れ米国に留学ということになった。留学にははじめは気が進まなかったのだがこれまたいろんな経緯を経て結局は GLSの研究室に参加することになった。

留学の一番大きな目的は、臨床のdutyーdutyだけでなく臨床が完全にないーがない環境下に自分がおかれた場合どれほどの事が研究でできるか見極めたいということに決めた。

留学中は、FIH-1もとれたし,某遺伝病の解析にも参加できたしまあまあの成果が上がったと思った。

研究だけに専念すればこのくらいにはできるのだという妙な自信もついたー後にこれが仇になるー

今から思えばもっとやっておくべき事はたくさんあったのだそうがんばる必要もなかろうと日和っていた訳である。

帰国時に、某研究所に就職したのが「1968年」的な観点からは失敗だったかもしれない。

そもそもの始まりは研究成果が生物学・医学の発展に役立つというよりは研究自体は自己確認の手段だったのであるが、研究所で研究をすることを生業とするという気負いで先鋭化していったのだと思う。

せめてもの救いは、ぼくの研究室に参加してくれた学生が数名いてくれて彼らとの人間的な交流があったことだろう。研究所を辞して、研究所付きの病院に異動して救われたと思った。今から考えればこの病院でのスタイルがぼくには一番あっていたのかもしれない。この期間の研究成果にはいまでもとても満足している。

しばらくして大学に異動してからはぼくの余裕がなくなり大学院の学生にも大変な迷惑をかけてる。大きな意味での研究活動は、基本的には自分のために行っていた「1968年」的性格を完全に失った。

研究にもいろんなものがあり最近では”役立つ”研究が重視される傾向にある。役立ちそうでかつ基礎的にも価値のある研究もたくさん存在して iPS cell研究などその好例であろう。

はじめに手がけた thioredoxinに関してもまた 10年ほど前から手がけている HIF-1にしてもまだ解かれていない基本的な問題が散在している。研究の進展とともに新たに生まれた問題でなく10数年前から解かれていない問題もたくさんあるのだ。これらを解くことで「1968年」問題に決着をつけて残りの人生を送りたいなという気持ちは強い、のですが難しいかもね。

時間があったので休みに「鶴見俊輔~戦後日本 人民の記憶~」の録画してあるのを見直しました。

ついでにこれも観た。

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